痴レ者につき。

井の中の蛙が、井の中から空を見上げたり、井の中に落ちてきた枯れ葉を眺めては、「これは何だらう」と愚考する系チラシの裏。

現時点までの『仮面ライダーゴースト』の楽しみ方を書き出す3月28日。

 三月は引っ越しをした為に、とても慌しく過ごしておりました。
どの程度慌ただしいかというと、宇野常寛氏が主催した対談ニコ生を観られなかった程度です。

なにやらそのニコ生が、一部の間で大変不評だったらしいのですが、だったら個人的に『ゴースト』をどう楽しんでいるのかを書き出してみようと思います。

宇野常寛氏のTwitterを見ていない方には意味不明な書き出しで、申し訳ない限り。

 



『ゴースト』は至極分かりやすい英雄神話の物語です。
わざわざ15眼魂を英雄と読んでいる辺りからもそれを読み取れますよね。
やっぱり英雄よりは偉人のほうがしっくり来るんですよねぇ……。
それはそれで実在してない人物には不適当にも思えるので困りどころですが。
やっぱり英霊が適当か……?

そんな型月脳は別として。

『ゴースト』は物語に欠かせない“異境”を“死”ではなく、その死を具現化した“眼魔界”として表現したところに面白さがあるように感じております。
今までの平成ライダーにも異世界を描いた作品はあります。
“ミラーワールド”“デンライナー(過去世界)”“月面ステーション”“アンダーワールド”“ヘルヘイムの森”等々。
しかし、それらは結構現実からの地続き的な描かれ方をしていました
日常の隣にある異世界とでも言えば伝わりやすいでしょうか?
隔絶した異世界って感じはしていないんですよね。

けれども、“眼魔界”はそれらとは一味違うように思います。
赤い空。軍荼利が蔓延する世界。人間はカプセルに容れられているという、明らかに現実と異なるルールが散りばめられています
特に赤い空が良い味出してるなあって。

そしてこの世界を、例えば“キャッスルドラン”のように一つの空間だけを撮影するのではなく、世界を撮影しようとしたところにも、味の違いを垣間見てしまいます。
異世界そのものを描こうとする姿勢。
主人公が死者(幽体)であるという設定との噛み合わせも良いですし、その異なるルールで生きてきた者達との交流によって、物語が進行するという演出もグッド。

でもそれって作品としての面白さ、あるいはシリーズでの面白さではあっても、そこから何かを読み取るって面白さではないような気がします。
そもそもの話、今さら英雄神話をやられたところで感が拭い切れないんですよねぇ。
他にも、幽体(死者)が生存していることで、命を大事にのテーマがぼやけているのも気になるところ。
命よりも大事なものがあるって方向に進むように見えて仕方ないです。
あるいは、魂をつなぐ(覚えている人がいる)ことで、人は死なないみたいな最近の命題?
それは『オーズ』がほぼ完璧な形でやっちゃったからなあ


ちょっと視点を変えて。
“眼魔界”について掘り下げてみる。

Twitter実況では“パラノイア”の世界観を思い出す方が多かったような印象を受けます。
何度でも“眼魔”が生まれる点を、“パラノイア”のクローンと一致させたのでしょう。
そして当然、アデル様をUV様として捉えるユートピア的管理構造からの連想。

しかし、このユートピア的管理構造、パラノイア”よりも『1984年』的じゃないかという感じがします
ビッグブラザー(アデル)に都合良く情報が改変される点……ではありません。
娯楽の排除、それに伴う思考・感性の排除が『1984年』的だと感じます。
この辺りはイゴールの考え方がとても分かりやすい事例になるかと。
不確定な要素を全て排除することで完璧な世界を目指す様子は、実にユートピア的です。
思考そのものが縛られている為、“パラノイア”における秘密結社が発生しにくいってのもあります。
『1984年』にも反逆者はいますし、“パラノイア”はゲームである以上、反逆的思考が皆無だとシステムが成立しないって側面もあるので、一概に「だから『1984年』にしか見えない」とはなりませんが。
パラノイア”『1984年』あるいはその他のユートピアのリスペクトだとしても、取り敢えず“眼魔界”がユートピアだというのは反論しづらいのではないでしょうか。

どちらかと言えばこのユートピアのほうが、読み取り的な楽しみ方には向いているかもです。
例えばTwitterの流行による、短文前提のコミュニケーション術。
それに伴って出てくる造語の数々は、ニュースピークに通じるものを垣間見れます。
ビッグブラザーがいないのに思考を縛っているってのも、中々面白いですよね。
また、感性を縛られたことによる、個性のない眼魔の数々
画一的・統一的な教育によって生まれる人材のメタ事例と読み取ることもできるのではないでしょうか。
大人になってから趣味を持ってしまったキュビは、大きな子どものメタ事例、とかね。

とまあ、自分は割と『ゴースト』を楽しんでいる側の消費者だと思います。
そしてその興味は殆ど、“眼魔界”に向いているんだな、という。
そしてその“眼魔界”出身のアデル様に向ける消費活動・消費欲求こそが、『ゴースト』を楽しむコツなんでしょう。
ユートピアから追放された人間は、何を思い何を考えるのやら。

……んー。
やっぱり作品単独としては面白いけど、『ゴースト』を通じて社会的背景を楽しむのはまだ難しいかもなあ。
その辺りは完結しないと判らないとも思うのですが、現段階ではそういう点で、面白くないと判断してしまうのも仕方ないかも。

 

ただ、『リトル・ピープルの時代』を書いてこの辺りに着目しないのは気になるなあ。

既に書いた事例、過去に通った道だから、今更批評の対象にはならないということなんでしょうかね?




あ、もう一点。
『ゴースト』は玩具の売り方が迷走してるなって感じます。
ガンガンセイバーの拡張性はすごく良かっただけに、それを使わずにサングラスラッシャー一辺倒はあんまりよろしくない。
サングラスラッシャーにそこまでプレイバリューがないのが足を引っ張っています。
アイコンドライバーGは、眼魂を集めなくてもそれっぽい音声を楽しめるって点で評価対象。
なので、迷走しているなというのが現段階の総評。

ガンガンセイバーは本当に面白いんだよな……。
見立てとしてもかなりクオリティ高い。
そっちを主力にすべき……と言うか、そういう売り方を目指していたわけではなかったのかと驚いているぐらいです。