痴レ者につき。

井の中の蛙が、井の中から空を見上げたり、井の中に落ちてきた枯れ葉を眺めては、「これは何だらう」と愚考する系チラシの裏。

『シンデレラガールズ』の物語構造を予想してみたかった。

皆さまお久しぶりです。軽率な人間、日谷さんです。
卒業に関する口述試験と、未だに終わらない就職活動に追われて、色々と余裕がなくなってきた今日この頃。
世間では『シンデレラガールズ』の三話が話題になっているような気がします。

ってことで『シンデレラガールズ』三話の感想記事……ではありません。
ちょっと趣向を変えて、『シンデレラガールズ』の物語構造を予想してみようって名目の記事です。地味にネタバレ注意ですので、ご了承ください。
 

 

さて。
事の始まりは、TwitterのRT機能により、流れてきたこれらのtweet

 






このブログの読者様ならご存知でしょうが、私は『シンデレラガールズ』第一話の放送後に、「『シンデレラガールズ』は「行って帰る」物語を想起させたのが面白い!」って記事を投げているんですよね。

別に名指しで否定されたわけではありませんが、対立意見を出されるともう一度考えなおしてみたくなるのが私の悪い癖。『シンデレラガールズ』の物語構造をもう一度考えてみようって流れなわけでございます。





それでですね、私が何故『シンデレラガールズ』を「行って帰る」物語として捉えたかって点なのですが、私は「アイドル活動とプライベートは分離可能」だと考えていたことが理由に挙げられます。

「アイドルとしてデビューした後のしぶりんだって、きっと家業の手伝いはするだろう。そのお手伝いは、決してアイドルの仕事とは関係ないだろう」と、そういう想像力なわけですね。

プライベートでアイドル活動の話に触れることだってあるかもしれませんが、「行って帰る」物語は「行って戻る」物語でないというのは既に言及した通り。「そういう日常の変化こそが行って帰る物語の醍醐味」というのが、私の想像力だったわけです。



なので、決して「ライブ」だけを「非日常」と捉えていたのではなく、「ライブやラジオ、レッスンも含めて」「非日常」と捉えていたのです。

だから『シンデレラガールズ』は二話以降、日常を描いておらず、常に非日常の「行った」状態にあると思っていたんですよね(強いて言うなら、第二話のエンディングは日常に属するかもしれない)。






が、よくよく考えてみると「アイドル活動とプライベートの分離」って結構無理があるというか、つまりそれって「行って帰る」物語を繰り返しているってことになっちゃうんですよね。アイドルの物語って、そんな小さいものの積み重ねなのか? って考えると、少々首を傾げたくなります。

それよりは「帰る」を「アイドルの引退」と捉え、「引退まではずっと非日常」と捉えたほうが適当な気がします。そもそも「アイドルに変身」した時点で、帰ってくる日常なんてない、それはアイドルとしての日常であり、つまり非日常であるってのも、納得できてしまいます。



こう考えるとですね、そもそも『シンデレラガールズ』を「ヒーローズ・ジャーニー」と予想したのは間違いだったんじゃないかという気になります。




となると、「千の顔を持つ英雄」として捉えるべきでしょうか? それとも「プロップの31の機能」として? どちらかと言えば後者のほうが新しい予想になりそうですが、要するにそれって「この先、欠如の描写があるよ!」ってことになってしまうので、あまり思考を進めたくはありません。
全く新しい物語構造である可能性だってもちろんあります。そもそも手持ちの参考文献が、割と古いもの(『ストーリーメーカー』2008年初版発行)ですし。ただ、そうなるとお手上げなので、もう少し足掻いてみたいところ。





というわけで、参考文献を変えてみましょう。取り出したのは、『物語工学論』。新城カズマによって書かれたこの本は、「物語(ストーリー)とはキャラクターである」の考えから、キャラクターを通して物語構造を考察しております。

七つに大別されたキャラクターのテンプレートも、「千の顔を持つ英雄」等を参考にしているため、全く新しい物語構造とは言えませんが、元々「キャラクターの物語」しか存在しない『モバマス』のアニメであるなら、キャラクター視点で捉えたほうがより適当になりそうな気がします。




で、ですね。「シンデレラプロジェクト」のメンバーはどれに対応するかなんですが、個人的には(広義の)「武装戦闘美女」になるのではないかって気がします(あるいは「さまよえる跛行者」)。




しかし、『物語工学論』は問題提起をした時点で終わってしまっているんですよね……強いて言うならこの類型は「欠如を回復する」物語に組み込めるのですが、じゃあ『シンデレラガールズ』を「欠如を回復する」物語として捉えるかって言うと、「まだ考えたくないなあ」というのが正直なところ。

一応「しぶりんが日常に(若干の)不満があった」とすれば、「欠如を回復する」物語として捉えられなくもない気がするんですが……。



後もう一つの問題点として、「別にアイドルって男性優位構造じゃなくね?」ってのがあります。実社会だとどうなのかは分かりませんが、『アイマス』の(特に『デレマス』の)世界は結構男女で棲み分けができているので、競争相手としての男性に囲まれる女性の構図がいまいちつかみづらいと言いますか。




その点を解決するために、『戦闘美少女の精神分析』を読まなきゃいけないなーってのと、「大学でキャラクター消費を専攻していたのにこれで良いのかよ……」と自省する夜でございました。



今回の記事、問題がありましたら削除いたしますので、何かありましたらご連絡ください。

 

 

物語工学論 キャラクターのつくり方 (角川ソフィア文庫)

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